音(2024年1月1日午前0時2分)
マイクロプラスチック
嬉しいことがいきなりやってくるとフワフワするんだね。
仕事場で「NPOの取材に行きなさい」といわれました。「アンタここね」と振り分けられたひとつが「チームくじら号」でした。
「チームくじら号」ってかわいい名前だなーと思いながらご連絡したら、代表の方が、しんかい6500に乗船されていた方と知って「どっひゃーーーー」ってね。何故どっひゃーかというと、私、JAMSTECのカレンダー捨てないで2004年から持っているかんじの、ほどほどのミーハーで、なので、微妙に地に足がつかない状態でフワフワとした気持ちで当日までの日々を過ごしていました。お会いしたのは午前10時から11時、短い時間でしたが、真夏日熱射の中、研究者の方々の想いに耳を傾けるというか、夢のような経験を積んだ方と言葉を交わせる、またとない(否、面白い人けっこういるので、わりとある)幸せ絶好調の時間を過ごしました。
場所:八景島海の公園内の砂浜(観察におこなわれた海岸は唯一の「自然海岸」とのこと)
なにをした:「東京の学校の授業サマープログラムで講師を務められるNPOの方々を取材」と称して、先生方に会いに行った
「写真は、学生さんがいらっしゃるので、記録されている写真を後ほど送っていただいてよいでしょうか?」とか言いながら、100パー楽しむ気まんまんで。しかも、実験の詳細も事前に資料をいただいていたし、おおむね暗記もしたつもりにもなっていて余裕まんまんで。
メモ帳に記した「おおお」「ふむふむ」「なるほど」と思ったこと
目的はデータを取ること。採取箇所が4つ、海岸の面積が小さいこともあるので、本来であれば採取箇所はランダムに決めるものですが、今回は機関長(加藤先生)が指定したポイントを標本採取箇所としました。指定したポイントは、漂流物が溜まっている横のラインの、防波堤の間際から3メートルほどの間隔をあけて4箇所。(防波堤に近いほど、砂ではない篩(ふるい)にかかる物質が多くあったようです)
え、そんなんでいいの?って思ったのですが、結果採取されたものの量と採取物を目撃して初めて「なるほど!」と感心しました。
採取物の中には西之島の噴火による噴石もありますよ
...と、加藤先生のうれしそうに噴石を見る笑顔に、私もなんかうれしくなったりして(参考:西之島の記録 https://www1.kaiho.mlit.go.jp/kaiikiDB/kaiyo18-2.htm )
漂流物に稀にある注射器は注意してください。医療廃棄物の不法投棄や海岸なのでジャンキーなんかも…
ジャンキー?!
科学を英語でおこなう授業は10年以上前からおこなわれており、チームくじら号にプログラムをお願いしたのは数年前から。今回は5日間のサマープログラムで、校内の学生希望者が参加しています。と、学校の先生にうかがいました。
そうなんです。今日のプログラムは【すべて英語で】なのです。テキスト資料も英語だったんですよお。翻訳しましたよお。行きの電車の中でも予習しましたよお。まさかの自己紹介なんかをふられた場合のことも考えて、作文もしてきたりもしたんですよお。
マイクロプラスチックのサイズの定義は5ミリメートル以下のもの。これは、プラスチックペレットの大きさ(5ミリメートル)によるものです。プラスチックペレットが世界中の海や川で目立つようになったことから、なんだなんだと研究者が調査にのりだしました。そうしたら、細かいプラスチックの存在が明らかになり、「マイクロプラスチック」の定義ができました。
プラスチックペレットとは、プラスチックの加工製品を作るための成形原料のこと。世界中の各地に工場があることから世界中の海や川を漂流しています。大雨のときには多く工場から漏出する傾向があるようです。
環境庁がすすめるマイクロプラスチックの調査方法は専門的で難しいので、チームくじら号では、市民にもできる方法、100円均一店で売っているもので実験ができるようにアレンジしました。
標本調査「コドラート法」25cm角の枠は、塩ビパイプで作られていてこどもたちも扱いやすそうでした。
全国の海岸のデータを集めれば、より正確なデータとなります。研究はみんなで力をあわせておこなうものです。例えば、「海洋ゴミの調査を行うからみんな集まって」とボランティアを募るとします。研究のお手伝いとあれば、諸外国ではあっという間に人が集まります。残念ながら、日本はそういうところが遅れています。
日本は「モラル」に頼りすぎています。大人のほとんどの人は、「目に見えないマイクロプラスチックがそこらへんを飛んでいること」を知らないんです。「危険」と安易に言うことのほうが危険なことです。
「モラル」とは、人の目を気にする考え方のほかに良心だったり慣わしだったり一見根拠がありそうなんだけど、よく考えると「ん?」って思うことばかりなので、みんなもっとよく考えたほうがいいよって思います。男性女性問わず年配の方に多いので、私もそろそろヤバいです。気をつけようね!
のっぽさん(『できるかな』)の言葉が好きです。「こどもはなんでも知っている」まさにそのとおりなのかもしれません。(←亀山先生談)大人はこどもにモラルをおしつけてはいけない。大人はこどもの言うことにもっと耳をかたむけなければいけないね。
マイクロプラスチックの主な源はゴミ集積所です。海岸の掃除を行なっても集めたゴミはゴミ集積所に持っていくんですよね。
プラスチックゴミで一番多いのはタイヤ。ここにあるマイクロプラスチックも数日中に海の深いところに流れて人間の目にふれないものになります。
深海の話! もっと聞きたい! 聞かせてくれーー!(←先生がたの言葉をひとつのこらず聞き逃したくない思いいっぱいで、発言を控えていた私のこころのサケビ)あっという間の1時間でした。
日本中の人に今日のことを呼びかけてください。全国のひとたちが調査をして全国のデータが集まったら、それは素晴らしいことです。科学に貢献することにつながります。
学生たちはこの後、学校に帰り、海岸で標本採取し選別したマイクロプラスチックの量と比重、顕微鏡観察、AIを使った調査の講義を受けます。この授業、うらやましいぜ・・・。
<ありがとうございます!>
機関長 加藤千明さん(NPO法人チームくじら号)
甲板長 亀山豊さん(NPO法人チームくじら号)
授業サポート「海洋ごみAI」の研究者 日高さん(JAMSTEC)
サマープログラムに参加した生徒たちと先生がた
参考
- NPO法人チームくじら号
- 「海ごみAI」~海岸の写真からごみを自動で分析 | JAMSTEC
- 深海よりスクリーニングしたプラスチック分解菌生分解性プラスチックは深海で分解される?(加藤千明)| 化学と生物
本日のおことば
ザリガニはパエリアに入れると美味しい(亀山先生談)
後日・・・
7月29日、チームくじら号による報告がfacebookで更新されました。
フィールドから戻った学生たちの教室での授業が詳しく知ることができて嬉しいです。
あらためて思います。この授業、うらやましいです・・・
戦中戦後のお話
80歳代の女性、文子さん(仮名)にお話を聞きました。
とても楽しいお話だったので、メモを取らせていただいたちょっとのことを記録いたします。
(会話の中でのメモなので、文子さんにも私にも記憶ちがいがあるかもしれません。もしなにかに使うときには、ご注意くださいませ)
私が小学生のころ、城址の実家から井戸店のトンネルをね。当時は井戸店のトンネルは1つしかないのよ。そこをぬけて衣笠小学校に通いました。
小学校休校と寺子屋
ところが小学校に入学したと同時に戦況が悪くなって、みんな縁故疎開(えんこそかい)をしました。それで小学校は休校。縁故のない私は行くところがないので寺子屋に通いました。城址界隈は、じしんばん(自身番)、いわゆる町内会のような場所が寺子屋の代わりに使われました。先生の名前は今でも覚えているわよ。その先生がおひとりでみんなを見てくれていました。
教科書は新聞紙みたいな「ざらばん紙」。物のない時代です。物を買うには切符を必要とする切符制度。
小学校に入学する私のために近所の人たちが切符をくれて、ランドセルを買ってくれました。でも布製の段ボールみたいなランドセルで、雨が降ったら溶けちゃいそうでした。セーラー服もあったけど、あまりよい生地ではなくて、ごわごわして着心地もよくなかったです。
通学路(城址- 井戸店- 衣笠)
戦争が終わり、こどもが疎開から帰ってきて衣笠小学校が再開しました。私は小学校4年生でした。
みんな早番と遅番の2部制で学校に通いました。生徒の数が多かったからだと思います。ひとクラス45人から50人でした。私は遅番でした。午前中? そうですね、、、家の手伝いをしていましたね。
通学路の井戸店のあたり、今あるセブンイレブンやガソリンスタンドのあたりは、崖を崩して整備されているのよ。そのあたりは急な崖の絶壁があって風がすごく強かったです。
井戸店には蹄鉄所がありました。牛や馬の蹄鉄をつけるところね。
蹄鉄所では、おじさんが牛の足を、こう、足の股に挟んで蹄(ひづめ)を削るの。それがすごく痛そうで、学校の帰りにずっと見てました。牛はそんなこと思ってないのだろうけどね。当時はとっても牛がかわいそうと思いました。
行商の人が三崎、長井から来るのもよく覚えています。
来る時は空車(からぐるま)で来る。そして帰りは肥やしを積んで帰るの。昔のトイレはみんな汲み取り式だったからね。そうして持ち帰った肥やしを畑に使っていたんでしょう。
佐野のあたりに青物市場があったようですね?
そうそう。空ではなくて、薪(まき)や野菜を積んでいる来る車もあったわよ。
衣笠商店街の闇市とかは?
衣笠商店街は戦後ね。バラックのような建物のお店がありました。
中学校は池上中学校に通いました。
卒業して事務員の職についたのですが、やっぱり勉強したくて、横高の夜間に通いました。
お給料をもらってからですが、玉寿々のラーメンを食べるのが楽しみでしたね。一杯37円でしたよ。そういえば、今の行政センターのあたりにお風呂屋さんがありましたね。消防署もあって、その隣だったかしら。
ナビレンス ヴァンジ彫刻庭園美術館
クレマチスの丘 ヴァンジ彫刻庭園美術館 2022年11月6日
執筆途中です。音のみ先に載せますね。
風の音、鳥の声、虫の声が聞こえますよ。
エントランスから歩く音(約11分)
庭園を歩く音(約2分)
庭園を歩く音 作品の説明など(約7分30秒)
消毒液の音(約40秒)
北村夏子さん(仮名)から聞いた横須賀の戦中戦後のお話の覚書
お話を聞いた日時:2022年 7月8日 14:30-15:30
函館から汽車で横須賀駅に着いた。
迎えにくるといっていたので、1日待って、半日待って、やっと北村さんが迎えに来ました。
お腹すいたでしょ?
おにぎりを8つ持って来ていたから大丈夫でしたよ。
北村さんとはそのときが初対面です。
横須賀駅からはバスに乗りました。途中で「子供と老人以外は降りろ」と言われ、なんのことかと思ったら坂を上がるのにみんなで押せっていわれました。平坂は今では平らだけれど当時はもっと傾斜があって、舗装もされていないんです。坂を上がり切るとそこから下りになるから、みんなでバスに乗り込みました。炭で走るバスでした。
どこの官舎も満員ですから、空きを待たなければならない。男は戦争に出ていても家族が住んでいるからなかなか空かないんです。私たちが行く先の官舎はというと、小矢部の田んぼのちょっと高いところにある細長い長屋でした。久里浜への線路ができた頃から北久里浜駅やら周辺一面田んぼだったところにそういった官舎ができていったんですね。
小矢部の祠(ほこら)、もうないかもしれませんが、そこのお宮さんに集まりました。
(このときにおそらくお式をあげたのだろうか)
それから2日後、兵隊さんが2人家にやってきて、間口で何か待っているようすで、そしたら北村さんが軍服を着て「黙っていて悪かった、行ってくる」と、出征してしまったんです。なにも聞いてなかったのでどうしたものかと、母が「この結婚はなかったことにしたほうがお前のためだ」と言うんです。私もそう思って、お婆さんに故郷に帰りますと、申し上げて母のところに向かい、ふと振り返ったときなんです。
子供を抱いていたお婆さん、こちらを向いていたはずのお婆さんが背中を向けて、その背中がなんとも言えない黒くて重くて、どーっとした感じで、「これから先、私がいなかったらこのお婆さんと子供はどうなっちゃうんだろう」って考えたら、もう帰れなくなっちゃったんですね。
それで、やっぱり残ることにしました。
想像どおり、その後の生活は大変でした。三浦半島は食料があるから戦時中でもそれほど苦労はなかったとよくいわれているけれど、それは農家の家のお話です。土地勘もないものだから、右も左もわからず、毎日他人様に頭を下げてお米を貰って生活していました。
警報があり、防空壕に避難していたら、隣組の若い女性が銀行のはんこを持ってくるのを忘れたと、壕から出ようとして、私は必死で、彼女の着物の裾を掴んで、そんなものは後でもなんとかなるからって言ったんですけど、強い力で振り解け、女性は走って行ってしまって、そしたらその後方を飛行機が追って、こう蛇行して、彼女の後ろを追っていって、機関銃でダダダダって打つんです。彼女が倒れました、その飛行機は旋回したときに、操縦席の人が見えたんです。黒人でした。笑ってました。まるでクマやシカを仕留めるように人間を撃ったんです。怒りがこみあげてきました。復習したいと思いました。怖かったです。私は震えていました。
アメリカもまずは黒人を使うんです。白人ではなくてね。
横須賀に来たのは24のときです。そのころの24は、もうおばさんです。
函館では、ご縁があって病院で看護師をしていました。主に助産師として働いていました。「埋めよ増やせよ」の時代ですからとても忙しい日々でした。こっち(横須賀)でもお産があれば、手伝っていました。
結婚しても男は皆、戦争に行ってしまいますから、そんな境遇の女性を「いちやづま」と云っていました。子を宿れば私はお産を手伝っていました。帰ってくればよいのですが、子を宿れなければそれまでです。
北村さんも、なかなか帰ってきませんでした。戦死の知らせはありませんでしたから、それを信じるしかありません。
北村さんは戦艦武蔵の乗組員でした。武蔵は公にしてはいけない船でしたので、家族宛の約束が書かれた書類がありました。賞状みたいなりっぱな紙でした。
戦時中の防空壕は岩山にあるものを使っていましたが、終戦後の防空壕は庭に掘りました。
戦後に防空壕ですか?
進駐軍が屋根のないトラックでやってきて女や子供をさらっていくと言われていたんです。夕方になると、「雨戸を閉めて夜は出歩かないこと」と警報のような放送があったんですよ。
三浦半島ふるさとのむかし話 母は語りべ
三浦半島ふるさとのむかし話 母は語りべ
1986年 7月
編者 あしたばの会
発行者 早武忠良
出版社 暁印書館
発売 横須賀書籍出版
大内順子(横須賀市立野比中学校教頭)
茶谷次雄(横須賀市教育委員会社会教育課)
上村和弘(横須賀市教育委員会国語科指導主事)
伊村加代子(挿絵)
目次
- 堰のかっぱ(衣笠)p7
- イボ地蔵(下宮田)p16
- 瘡守稲荷(衣笠)p21
- こうじ山のオーケストラ(長井)p26
- ぽっくり地蔵(長井)p33
- 大楠山の彼岸花(長井)p36
- 浜せがき(長井)p44
- おまんぎつね(鴨居)p50
- とめ吉どんと海坊主(鴨居)p56
- たたらの浜(鴨居)p61
- 鵜と大蛇と観音さま(観音崎)p68
- おないどしの一つちがい(浦賀)p79
- 湖幡屋の札(浦賀)p86
- 一本松のむじな(上宮田)p91
- かっぱのわび証文(金田)p99
- 送りぎつね(引橋)p105
- ひげぬき場(岩戸/佐原)p113
- もはさんときつね(追浜)p116
- “鈴木”という姓(久里浜)p122
- 化粧が窪(小矢部)p127
- 夫婦岩(浦郷)p135
- 小松が池(下宮田)p138
- 七桶の大蛸(葉山)p143
- どうしんぼう(葉山)p149
- かっぱ松(逗子)p156
- 盆の送り火(小坪)p162
- 池子の雨乞い(池子)p166
1. 堰のかっぱ(衣笠)
お母さん思いの女の子トキに同情して改心するカッパのはなし
- 堰にうかぶひしの葉を枕に、ごろりと横になっていました。
- けやきは小高い丘の上にありました。〜根元に祠が建ててありました。
- ひしの実が腹の病に効くとはな。
- ひとつ ひまわり花づくし/ ふたつ ふじだなふじのはな/ みつより咲いたは 寒の梅
- 堰の場所は不明。書籍『古老の話』に出てくるカッパの場所は衣笠栄町公園付近と思われる。〒238-0031 神奈川県横須賀市衣笠栄町3丁目1−2
2.イボ地蔵(下宮田)
泊めてもらったお礼に、岩にお地蔵さまを刻んでくださいました。
その日から毎日祈りし、桃の咲くころにはお父さんの顔のイボがすっかりきれいになりました。
- 「この地蔵さまは深谷の円通寺の境内におりましたが、今は大矢部の清雲寺本堂の右前に子育て地蔵と並んで立っています。」
3.瘡守稲荷(衣笠)
- 浦賀生まれの力士、岩男波磯吉が、平作の大蔵寺にあるお稲荷さんにおこもりをして大病が直り大阪の関脇との一番にも勝つことができた。
- そのお稲荷さんは、大蔵寺の和尚さんが祀って日夜祈り続け、江戸で流行った疱瘡が入ってくるのを防いだと伝えられていた。
- 岩男波磯吉はその後、京都の伏見稲荷に参拝に「瘡守」といれてもらったことから「瘡守稲荷」といわれるようになった。
4. こうじ山のオーケストラ(長井)
漁師の茂三が助けた、鉄のわなにかかった子だぬきの恩返しは、たぬき、むじな、きつねの大楽隊、すばらしい月夜のオーケストラでした。
- 「おお、いたかんべえ、いたかんべえになぁ。」茂三は、罠をはずしてやりました。
- 銚子沖までさんま漁に行ってきました。ところがある時、悲しいことにその中の一人がこれらにかかって死んでしまいました。
- 残った十三人は長井にもどるなり、こうじ山のてっぺんに作られた小屋に入れられてしまいました。
- この小屋は、村人たちの信仰を集めているぽっくり地蔵さんのわきの道をしばらく入った山の中にありました。
- 十三人の漁師は、コレラの疑いがはれるまでの十四日間は、一歩たりとも小屋をでることは許されません。
5. ぽっくり地蔵(長井)
長井 こうじ山 漁師 寝たきりのじいさまと、やさしくて働き者のばあさまといっしょに暮らしていた娘、美津の願いを叶えたお地蔵様のおはなし
- 「ばあさまを楽にしてやってけえな。ばあさまを楽にしてやってけえな。」
6. 大楠山の彼岸花(長井)
大楠山 行方がわからなくなった七歳の男の子“りょっこ”のおはなし
- 長徳寺の裏山からもう一つ奥に入った山の、片隅の草地に彼岸花が咲いているのです。
- そっと手を触れる“りょっこ”の顔の下で、細く真っ赤な花弁がそりかえり、かすかにうず巻くように揺れ動いています。
- 月見草色の着物を着たその人の、花をつむ横顔を見ていると、源さん夫婦は、前にどこかであったような気がしてきました。
- ふわふわした動物の抜毛がいっぱい落ちているのに気がつきました。
20. 化粧が窪(けしょうがくぼ)(小矢部)
土地の呼び名「化粧が窪」の由来、美しい女に化けたきつねのおはなし
- 衣笠小学校のあたり一帯は、昔、傾城が原(けいせいがはら)と呼ばれる野原だったそうです。“化粧が窪”は、その野原の一部分をさしたものと思われます。(「傾城」とは、妖艶なる美人の事、遊女のことをいう)
- 小矢部村から五郎が渕(ごろうがふち)へ行く途中の広い野原に、ちょくちょくきつねが姿を現しました
- きつねは百歳になると、美人に化けられるというからなあ
年代別のグラフを作る Google Data Studio
csvは用意されているのですが、
そろそろ年代別の推移が見たいなと、グラフにしてみました。
データの元は、横須賀市内の新型コロナウイルス感染症患者の発生状況(*月*日更新)https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/3130/hasseijoukyou.html です。
アップロードされている「オープンデータ」に年代の値が含まれていないので、サイトで公開されている表示データのソースを取得し、それを削ったりしてお掃除してcsvにしました。テキストエディタでやります。まあめんどうくさいです。
「できたー」ってグラフは、ぱっと見ただけでは、わかりにくいですので、なにかに使うにはデータのさらなる掃除が必要になりますが、なんか20代、多くなってるなーというのが理解できましたので、わりと気が済みました。
しかし、、、
市町村のオープンデータが都道府県のオープンデータと同じでないのが不思議です。
ダメ事項がそこそこあって、すごく理想的な教材かも、などと感心したりもします。
また気が向いたら、9月4日以降のデータを更新します。
トラツグミの声
鵺(ヌエ)です。
妖怪ヌエの声を聞いてみたい。
トラツグミの声を聞いてみたい。
「トラツグミの声はどこで聞けるの?」
「樹海」
「…真夜中の樹海はイヤかも」
聞きたい聞きたいと唱えて2年。
とうとう行けることになりました。
右上の方向と左上の方向にいるトラツグミ2羽が鳴きあっています。ジュウイチという鳥が後方上空を飛びながら鳴いていました。録音は2021年6月13日(日)真夜中の3時くらいです。
明け方に繰り広げられる鳥たちの合唱もすばらしいものでした。コーディネートしてくださった鳥の先生に感謝です。
下記は、今回の「夜の鳥を聞くツアー」でのメモです。
聞くことができたり見ることができた鳥の名前を記しています。最後の「のふすま」は、妖怪の名前です。
妖怪「野衾」を見たわけではなく、今回、鳥の先生にくわえ、妖怪のことに詳しい先生にごいっしょしていただきました。たいへん楽しいツアーでした。
トラツグミ
ジュウイチ
アカハラ
ルリビタキ
ツツドリ
カッコウ
コルリ
キビタキ
イカル
アオバト
ホオアカ
コムクドリ
アオジ
モズ
ノビタキ(オス)
コヨシキリ
ヒバリ
エゾハルゼミ
ヤマガラ
のふすま
ミゾゴイを録音したつもりが
夜、友人宅玄関を出ると、雨が降っていた。
通り雨のようだったので、雨が弱まるのすこし待ち、しばらくすると雨はあがった。
ミゾゴイの声が聞こえた。
めぼしい方向にバイクを進め、おおよそこの山から聞こえるであろう場所に行き、ミゾゴイの鳴く声に耳をかたむけた。
ボー ボー ボー(ひとやすみ)ボー ボー ボーボー ボー ・・・
夜に鳴く鳥好きには、たまらなくレアだし、気持ちのよい声である。
ひとまず生声を堪能し、
手持ちのiPodで録音した。
雨上がりで、明日も雨予報の初夏である。カエルが元気だ。元気すぎる。
録れた音は、
みごとなヒキガエルたちの声にミゾゴイの低音は、かき消されてしまわれたのだが、この山のカエルの合唱は、なんだかライヒの振り子の音楽みたいでもあり、楽しい。
家に帰ってしばらくすると、また、どしゃっとした通り雨が降って行った。