文字の枠線を入れたときにオーバープリントになる

分配プレビューすると、オーバープリント?っぽいよね

これはinDesignのバグなのかな。

文字に枠線を設定したときに(線の太さにもよるんだけど)オーバープリントになる。

印刷屋さんの助言は、ありがたいです。

黒色の文字の塗り色

(1)C=0 M=0 Y=0 K=100
(2)C=1 M=1 Y=1 K=100

(1)で指摘され、(2)に直して入稿データを作り直すことにしました。

一応、プリント属性からオーバープリントの設定も切り替えてみたりしたんですが、変化なしでした。

標準のプレビューは(1)(2)ともに同じなのですが
標準のプレビューは(1)(2)ともに同じなのですが
分配プレビューすると、オーバープリント?っぽいよね
分配プレビューすると、オーバープリント?っぽいよね
黄色(イエロー)の版を見ると、ほんとだオーバープリントだ
黄色(イエロー)の版を見ると、ほんとだオーバープリントだ

Adobe inDesign 19.0.1

分版プレビュー
ウインドウ > 出力 > 分配プレビュー

プリント属性
ウインドウ > 出力 > プリント属性

マイクロプラスチック

嬉しいことがいきなりやってくるとフワフワするんだね。

仕事場で「NPOの取材に行きなさい」といわれました。「アンタここね」と振り分けられたひとつが「チームくじら号」でした。

「チームくじら号」ってかわいい名前だなーと思いながらご連絡したら、代表の方が、しんかい6500に乗船されていた方と知って「どっひゃーーーー」ってね。何故どっひゃーかというと、私、JAMSTECのカレンダー捨てないで2004年から持っているかんじの、ほどほどのミーハーで、なので、微妙に地に足がつかない状態でフワフワとした気持ちで当日までの日々を過ごしていました。お会いしたのは午前10時から11時、短い時間でしたが、真夏日熱射の中、研究者の方々の想いに耳を傾けるというか、夢のような経験を積んだ方と言葉を交わせる、またとない(否、面白い人けっこういるので、わりとある)幸せ絶好調の時間を過ごしました。

場所:八景島海の公園内の砂浜(観察におこなわれた海岸は唯一の「自然海岸」とのこと)
なにをした:「東京の学校の授業サマープログラムで講師を務められるNPOの方々を取材」と称して、先生方に会いに行った

八景島海の公園内の砂浜

「写真は、学生さんがいらっしゃるので、記録されている写真を後ほど送っていただいてよいでしょうか?」とか言いながら、100パー楽しむ気まんまんで。しかも、実験の詳細も事前に資料をいただいていたし、おおむね暗記もしたつもりにもなっていて余裕まんまんで。

取材メモに「しんかい6500のメモ帳」を持っていきましたさ

メモ帳に記した「おおお」「ふむふむ」「なるほど」と思ったこと

目的はデータを取ること。採取箇所が4つ、海岸の面積が小さいこともあるので、本来であれば採取箇所はランダムに決めるものですが、今回は機関長(加藤先生)が指定したポイントを標本採取箇所としました。指定したポイントは、漂流物が溜まっている横のラインの、防波堤の間際から3メートルほどの間隔をあけて4箇所。(防波堤に近いほど、砂ではない篩(ふるい)にかかる物質が多くあったようです)

え、そんなんでいいの?って思ったのですが、結果採取されたものの量と採取物を目撃して初めて「なるほど!」と感心しました。

採取物の中には西之島の噴火による噴石もありますよ

...と、加藤先生のうれしそうに噴石を見る笑顔に、私もなんかうれしくなったりして(参考:西之島の記録 https://www1.kaiho.mlit.go.jp/kaiikiDB/kaiyo18-2.htm

漂流物に稀にある注射器は注意してください。医療廃棄物の不法投棄や海岸なのでジャンキーなんかも… 

ジャンキー?!

科学を英語でおこなう授業は10年以上前からおこなわれており、チームくじら号にプログラムをお願いしたのは数年前から。今回は5日間のサマープログラムで、校内の学生希望者が参加しています。と、学校の先生にうかがいました。

そうなんです。今日のプログラムは【すべて英語で】なのです。テキスト資料も英語だったんですよお。翻訳しましたよお。行きの電車の中でも予習しましたよお。まさかの自己紹介なんかをふられた場合のことも考えて、作文もしてきたりもしたんですよお。

マイクロプラスチックのサイズの定義は5ミリメートル以下のもの。これは、プラスチックペレットの大きさ(5ミリメートル)によるものです。プラスチックペレットが世界中の海や川で目立つようになったことから、なんだなんだと研究者が調査にのりだしました。そうしたら、細かいプラスチックの存在が明らかになり、「マイクロプラスチック」の定義ができました。

プラスチックペレットとは、プラスチックの加工製品を作るための成形原料のこと。世界中の各地に工場があることから世界中の海や川を漂流しています。大雨のときには多く工場から漏出する傾向があるようです。

環境庁がすすめるマイクロプラスチックの調査方法は専門的で難しいので、チームくじら号では、市民にもできる方法、100円均一店で売っているもので実験ができるようにアレンジしました。

標本調査「コドラート法」25cm角の枠は、塩ビパイプで作られていてこどもたちも扱いやすそうでした。

全国の海岸のデータを集めれば、より正確なデータとなります。研究はみんなで力をあわせておこなうものです。例えば、「海洋ゴミの調査を行うからみんな集まって」とボランティアを募るとします。研究のお手伝いとあれば、諸外国ではあっという間に人が集まります。残念ながら、日本はそういうところが遅れています。

日本は「モラル」に頼りすぎています。大人のほとんどの人は、「目に見えないマイクロプラスチックがそこらへんを飛んでいること」を知らないんです。「危険」と安易に言うことのほうが危険なことです。

「モラル」とは、人の目を気にする考え方のほかに良心だったり慣わしだったり一見根拠がありそうなんだけど、よく考えると「ん?」って思うことばかりなので、みんなもっとよく考えたほうがいいよって思います。男性女性問わず年配の方に多いので、私もそろそろヤバいです。気をつけようね!

のっぽさん(『できるかな』)の言葉が好きです。「こどもはなんでも知っている」まさにそのとおりなのかもしれません。(←亀山先生談)大人はこどもにモラルをおしつけてはいけない。大人はこどもの言うことにもっと耳をかたむけなければいけないね。

マイクロプラスチックの主な源はゴミ集積所です。海岸の掃除を行なっても集めたゴミはゴミ集積所に持っていくんですよね。

プラスチックゴミで一番多いのはタイヤ。ここにあるマイクロプラスチックも数日中に海の深いところに流れて人間の目にふれないものになります。

深海の話! もっと聞きたい! 聞かせてくれーー!(←先生がたの言葉をひとつのこらず聞き逃したくない思いいっぱいで、発言を控えていた私のこころのサケビ)あっという間の1時間でした。

日本中の人に今日のことを呼びかけてください。全国のひとたちが調査をして全国のデータが集まったら、それは素晴らしいことです。科学に貢献することにつながります。

学生たちはこの後、学校に帰り、海岸で標本採取し選別したマイクロプラスチックの量と比重、顕微鏡観察、AIを使った調査の講義を受けます。この授業、うらやましいぜ・・・。

<ありがとうございます!>

機関長 加藤千明さん(NPO法人チームくじら号)
甲板長 亀山豊さん(NPO法人チームくじら号)
授業サポート「海洋ごみAI」の研究者 日高さん(JAMSTEC)
サマープログラムに参加した生徒たちと先生がた

参考

本日のおことば

ザリガニはパエリアに入れると美味しい(亀山先生談)


後日・・・

7月29日、チームくじら号による報告がfacebookで更新されました。

フィールドから戻った学生たちの教室での授業が詳しく知ることができて嬉しいです。
あらためて思います。この授業、うらやましいです・・・

投稿記事はこちら

戦中戦後のお話

80歳代の女性、文子さん(仮名)にお話を聞きました。
とても楽しいお話だったので、メモを取らせていただいたちょっとのことを記録いたします。

(会話の中でのメモなので、文子さんにも私にも記憶ちがいがあるかもしれません。もしなにかに使うときには、ご注意くださいませ)


私が小学生のころ、城址の実家から井戸店のトンネルをね。当時は井戸店のトンネルは1つしかないのよ。そこをぬけて衣笠小学校に通いました。

小学校休校と寺子屋

ところが小学校に入学したと同時に戦況が悪くなって、みんな縁故疎開(えんこそかい)をしました。それで小学校は休校。縁故のない私は行くところがないので寺子屋に通いました。城址界隈は、じしんばん(自身番)、いわゆる町内会のような場所が寺子屋の代わりに使われました。先生の名前は今でも覚えているわよ。その先生がおひとりでみんなを見てくれていました。

教科書は新聞紙みたいな「ざらばん紙」。物のない時代です。物を買うには切符を必要とする切符制度。
小学校に入学する私のために近所の人たちが切符をくれて、ランドセルを買ってくれました。でも布製の段ボールみたいなランドセルで、雨が降ったら溶けちゃいそうでした。セーラー服もあったけど、あまりよい生地ではなくて、ごわごわして着心地もよくなかったです。

通学路(城址- 井戸店- 衣笠)

戦争が終わり、こどもが疎開から帰ってきて衣笠小学校が再開しました。私は小学校4年生でした。
みんな早番と遅番の2部制で学校に通いました。生徒の数が多かったからだと思います。ひとクラス45人から50人でした。私は遅番でした。午前中? そうですね、、、家の手伝いをしていましたね。

通学路の井戸店のあたり、今あるセブンイレブンやガソリンスタンドのあたりは、崖を崩して整備されているのよ。そのあたりは急な崖の絶壁があって風がすごく強かったです。

井戸店には蹄鉄所がありました。牛や馬の蹄鉄をつけるところね。
蹄鉄所では、おじさんが牛の足を、こう、足の股に挟んで蹄(ひづめ)を削るの。それがすごく痛そうで、学校の帰りにずっと見てました。牛はそんなこと思ってないのだろうけどね。当時はとっても牛がかわいそうと思いました。

行商の人が三崎、長井から来るのもよく覚えています。
来る時は空車(からぐるま)で来る。そして帰りは肥やしを積んで帰るの。昔のトイレはみんな汲み取り式だったからね。そうして持ち帰った肥やしを畑に使っていたんでしょう。

佐野のあたりに青物市場があったようですね?

そうそう。空ではなくて、薪(まき)や野菜を積んでいる来る車もあったわよ。

衣笠商店街の闇市とかは?

衣笠商店街は戦後ね。バラックのような建物のお店がありました。

中学校は池上中学校に通いました。
卒業して事務員の職についたのですが、やっぱり勉強したくて、横高の夜間に通いました。
お給料をもらってからですが、玉寿々のラーメンを食べるのが楽しみでしたね。一杯37円でしたよ。そういえば、今の行政センターのあたりにお風呂屋さんがありましたね。消防署もあって、その隣だったかしら。


FileMaker もうひとつのアクセス権でログインしたら開かなかった

FileMaker Pro 19.6.3.302

2つ以上の共有ファイルをセットし、アクセス権を2つ作り、FileMaker Serverにアップロードした。
完全アクセス権のアカウントでは問題なく動作したのだが、もうひとつ作ったアクセス権でログインしたところ、ファイルが開かなかった。

困ったなあと探っていたら、あった。

アクセス権セットの編集画面

ファイル > 管理 > セキュリティ
任意のアクセス権を選択
アクセス権セット の 編集(鉛筆印)
アクセス権セットの編集画面の「拡張アクセス権」の中のリスト
「FileMaker ネットワークによるアクセス(fmapp)」にチェックをいれます。

FileMaker スクリプトの無効ができない

FileMaker Pro 19.6.3.302

なんで「無効」にできないんやーーーー

スクリプトワークスペース画面のメニュー編集のリスト内、無効のコマンドが無効になっている

世界中から舌打ちが聞こえてきそうだ。

「高度なツールを使用する」にチェックを入れるとできるらしい

設定 > 一般 > 高度なツールを使用する

メニューFileMaker Proのリスト内「設定」を選択
環境設定画面、タブメニュー「一般」画面の見出し「アプリケーション」内にある「高度なツールを使用する」にチェック

FileMaker パスワードを設定するときのユーザー名

FileMakert Pro 19.6.3.302

パスワードを設定しないとサーバにアップロードできないと言われ、パスワードを設定しようとしたところ、「任意のアカウント名が付けられないの?」ってなったとき

ファイル > 管理 > セキュリティ
「セキュリティ管理」は、アカウントを作り権限を設定管理する画面です。
表示されている「名前」を参照します。

セキュリティの管理の画面

ファイル > ファイルオプション
参照した「名前」でパスワードを設定します。

ファイルオプションの画面

デフォルト("Admin")は完全アクセス権限のアカウントです。
セキュリティ管理の画面で「+新規」し作成すれば、任意の名前でログインすることができます。

FileMaker 出力するPDFのレイアウトを調整する

FileMakert Pro 19.6.3.302

余白を1cmずつの帳票を作ります。

「ボディ」のサイズを設定します。
レイアウトモードで、画面上の「ボディ」をクリックしサイズを27.7cmにし、画面上で幅をぎゅーっとしようとするとサイズの幅にも入力できるようになります。幅を19cmとします。

レイアウトモードの画面

レイアウトモードで、レイアウトバー(上部のバー)のレイアウト設定ボタン(鉛筆のアイコン)をクリック。
レイアウト設定のタブ「印刷」画面で「ページ余白設定を使用する」で1cmと入力し設定します。

ページ余白設定の画面

出力されたPDF

出力したPDFの画像

ナビレンス ヴァンジ彫刻庭園美術館

クレマチスの丘 ヴァンジ彫刻庭園美術館 2022年11月6日

執筆途中です。音のみ先に載せますね。

風の音、鳥の声、虫の声が聞こえますよ。

エントランスから歩く音(約11分)

庭園を歩く音(約2分)

庭園を歩く音 作品の説明など(約7分30秒)

消毒液の音(約40秒)

北村夏子さん(仮名)から聞いた横須賀の戦中戦後のお話の覚書

お話を聞いた日時:2022年 7月8日 14:30-15:30


函館から汽車で横須賀駅に着いた。
迎えにくるといっていたので、1日待って、半日待って、やっと北村さんが迎えに来ました。

お腹すいたでしょ?

おにぎりを8つ持って来ていたから大丈夫でしたよ。

北村さんとはそのときが初対面です。
横須賀駅からはバスに乗りました。途中で「子供と老人以外は降りろ」と言われ、なんのことかと思ったら坂を上がるのにみんなで押せっていわれました。平坂は今では平らだけれど当時はもっと傾斜があって、舗装もされていないんです。坂を上がり切るとそこから下りになるから、みんなでバスに乗り込みました。炭で走るバスでした。

どこの官舎も満員ですから、空きを待たなければならない。男は戦争に出ていても家族が住んでいるからなかなか空かないんです。私たちが行く先の官舎はというと、小矢部の田んぼのちょっと高いところにある細長い長屋でした。久里浜への線路ができた頃から北久里浜駅やら周辺一面田んぼだったところにそういった官舎ができていったんですね。

小矢部の祠(ほこら)、もうないかもしれませんが、そこのお宮さんに集まりました。
(このときにおそらくお式をあげたのだろうか)
それから2日後、兵隊さんが2人家にやってきて、間口で何か待っているようすで、そしたら北村さんが軍服を着て「黙っていて悪かった、行ってくる」と、出征してしまったんです。なにも聞いてなかったのでどうしたものかと、母が「この結婚はなかったことにしたほうがお前のためだ」と言うんです。私もそう思って、お婆さんに故郷に帰りますと、申し上げて母のところに向かい、ふと振り返ったときなんです。
子供を抱いていたお婆さん、こちらを向いていたはずのお婆さんが背中を向けて、その背中がなんとも言えない黒くて重くて、どーっとした感じで、「これから先、私がいなかったらこのお婆さんと子供はどうなっちゃうんだろう」って考えたら、もう帰れなくなっちゃったんですね。
それで、やっぱり残ることにしました。
想像どおり、その後の生活は大変でした。三浦半島は食料があるから戦時中でもそれほど苦労はなかったとよくいわれているけれど、それは農家の家のお話です。土地勘もないものだから、右も左もわからず、毎日他人様に頭を下げてお米を貰って生活していました。

警報があり、防空壕に避難していたら、隣組の若い女性が銀行のはんこを持ってくるのを忘れたと、壕から出ようとして、私は必死で、彼女の着物の裾を掴んで、そんなものは後でもなんとかなるからって言ったんですけど、強い力で振り解け、女性は走って行ってしまって、そしたらその後方を飛行機が追って、こう蛇行して、彼女の後ろを追っていって、機関銃でダダダダって打つんです。彼女が倒れました、その飛行機は旋回したときに、操縦席の人が見えたんです。黒人でした。笑ってました。まるでクマやシカを仕留めるように人間を撃ったんです。怒りがこみあげてきました。復習したいと思いました。怖かったです。私は震えていました。
アメリカもまずは黒人を使うんです。白人ではなくてね。

横須賀に来たのは24のときです。そのころの24は、もうおばさんです。
函館では、ご縁があって病院で看護師をしていました。主に助産師として働いていました。「埋めよ増やせよ」の時代ですからとても忙しい日々でした。こっち(横須賀)でもお産があれば、手伝っていました。

結婚しても男は皆、戦争に行ってしまいますから、そんな境遇の女性を「いちやづま」と云っていました。子を宿れば私はお産を手伝っていました。帰ってくればよいのですが、子を宿れなければそれまでです。

北村さんも、なかなか帰ってきませんでした。戦死の知らせはありませんでしたから、それを信じるしかありません。
北村さんは戦艦武蔵の乗組員でした。武蔵は公にしてはいけない船でしたので、家族宛の約束が書かれた書類がありました。賞状みたいなりっぱな紙でした。

戦時中の防空壕は岩山にあるものを使っていましたが、終戦後の防空壕は庭に掘りました。

戦後に防空壕ですか?

進駐軍が屋根のないトラックでやってきて女や子供をさらっていくと言われていたんです。夕方になると、「雨戸を閉めて夜は出歩かないこと」と警報のような放送があったんですよ。

(覚書)旧制三浦中学(現三浦学苑高等学校)

池上の松原山(今の池上中学校の場所)を敷地予定地として昭和三年二月二十九日付で代表者南波国二(藤沢市片瀬の住人)の名で文部大臣宛財団法人三浦中学校設立認可申請書を県庁に提出
生徒を募集したところ、百三十三名の応募者があった
入学式、敷地や校舎ができるまでの間、妙蔵寺(横須賀市池上)を借りることに

当時の住職、杉崎顕中上人の旧友(横須賀の教育者で地所持ちである資産家)福本壽栄が役員のひとりだったことも幸いし、再三にわたる協議の末、昭和三年四月から五月末まで、お寺の行事の邪魔にならないようにする等の条件つき

昭和三年四月十五日 入学式 福本壽栄宅
昭和三年四月二十日より 授業開始 妙蔵寺
本堂も庫裡もお寺の大部分を借用
学級は三学級で授業を行い、教職は八名

松原山を削って校地を造る工事が始まるも、資金不足で中止となる
妙蔵寺には、百三十数名の若い生徒が毎日通学してくる。本堂の丸柱や畳、庫裡や座敷の方も同様痛めてしまう特に雨天の日などは本堂前の芝生も踏み蹴られてしまう

妙蔵寺との約束の五月末になっても敷地工事は一向に進まず、
(報告もないまま、現場の教師も生徒も不安でいっぱい)

昭和三年七月二十日、第一学期の終業式を迎える

発起人のひとりであった大塚孝惟(元横須賀学務課長)は、三浦中学校設立の困難さを感じ、公郷の大地主石渡担方を説得、中学校設立より簡単な商業高校設立を考え石渡氏を設立者兼校長とすることを条件に、昭和三年八月初旬ごろから設立運動に着手
一方、
福本壽栄は七月末をもって沢山小学校校長を辞任、今後は三浦中学校設立許可の取得に自ら先頭に立つことを覚悟。
県庁学務課を訪問、一学期間の経過と現況を説明。二月二十九日に提出した申請書は、内容不備および出願後の連絡もなかったため、机の引き出しの下積みになっていたので、却下申請を県へ提出。
松原山の敷地の造成工事も再開され、八月末を期限として仮校舎の建築に着手。

昭和三年九月一日 第二学期授業を始める 松原山の仮校舎

学校設立認可にあたり、敷地について中学校設置基準に達するために個人の資金を要する事項に対し不合格とされた
そこで、大明寺下の現在の敷地を候補地とした。福本家の所有地で、第一級のコメが収穫できる一等地であったため、小作人全員が土地取り上げに反対した。地主福本からやむを得ない事情を何回も詳細に説明しようやく諒解してもらうことができた。
数千坪の田んぼの埋め立てにも膨大な資金がかかり、福本の資産が担保に。

昭和三年九月始め 申請書提出
昭和三年十一月二十日付、申請書受理
昭和三年十二月第二学期終了と同時に松原山の校舎解体。四年一月の始業式に間に合うよう移転作業。職員生徒総がかり、馬力二台動員。
福本は一日おき位の割合で県庁へ赴き、文部省へも足を運んだ。県官も工事の進みを時々視察にきていた。
昭和四年四月五日付で三浦中学校設立認可を得た。


福本壽栄
昭和六年十二月初旬 風邪で床につき、十二月二十五日ご逝去(五十三歳)


この覚書の元の資料
妙蔵寺たより 第54号(平成11年7月21日)
旧制三浦中学(現三浦高等学校)発祥の地妙蔵寺 学校誕生の頃と妙蔵寺
横須賀市若葉幼稚園 理事長 竹折輝達


※学校敷地の埋め立てに、JR横須賀トンネル掘削の土砂を使ったという話を耳にしたことがあるが、年代あわず保留中
JR横須賀トンネル(全長 2089m)
1944年(昭和19年)完成
1944年(昭和19年)横須賀線久里浜駅まで延伸
昭和20年4月-8月 相模金谷駅