戦中戦後のお話

80歳代の女性、文子さん(仮名)にお話を聞きました。
とても楽しいお話だったので、メモを取らせていただいたちょっとのことを記録いたします。

(会話の中でのメモなので、文子さんにも私にも記憶ちがいがあるかもしれません。もしなにかに使うときには、ご注意くださいませ)


私が小学生のころ、城址の実家から井戸店のトンネルをね。当時は井戸店のトンネルは1つしかないのよ。そこをぬけて衣笠小学校に通いました。

小学校休校と寺子屋

ところが小学校に入学したと同時に戦況が悪くなって、みんな縁故疎開(えんこそかい)をしました。それで小学校は休校。縁故のない私は行くところがないので寺子屋に通いました。城址界隈は、じしんばん(自身番)、いわゆる町内会のような場所が寺子屋の代わりに使われました。先生の名前は今でも覚えているわよ。その先生がおひとりでみんなを見てくれていました。

教科書は新聞紙みたいな「ざらばん紙」。物のない時代です。物を買うには切符を必要とする切符制度。
小学校に入学する私のために近所の人たちが切符をくれて、ランドセルを買ってくれました。でも布製の段ボールみたいなランドセルで、雨が降ったら溶けちゃいそうでした。セーラー服もあったけど、あまりよい生地ではなくて、ごわごわして着心地もよくなかったです。

通学路(城址- 井戸店- 衣笠)

戦争が終わり、こどもが疎開から帰ってきて衣笠小学校が再開しました。私は小学校4年生でした。
みんな早番と遅番の2部制で学校に通いました。生徒の数が多かったからだと思います。ひとクラス45人から50人でした。私は遅番でした。午前中? そうですね、、、家の手伝いをしていましたね。

通学路の井戸店のあたり、今あるセブンイレブンやガソリンスタンドのあたりは、崖を崩して整備されているのよ。そのあたりは急な崖の絶壁があって風がすごく強かったです。

井戸店には蹄鉄所がありました。牛や馬の蹄鉄をつけるところね。
蹄鉄所では、おじさんが牛の足を、こう、足の股に挟んで蹄(ひづめ)を削るの。それがすごく痛そうで、学校の帰りにずっと見てました。牛はそんなこと思ってないのだろうけどね。当時はとっても牛がかわいそうと思いました。

行商の人が三崎、長井から来るのもよく覚えています。
来る時は空車(からぐるま)で来る。そして帰りは肥やしを積んで帰るの。昔のトイレはみんな汲み取り式だったからね。そうして持ち帰った肥やしを畑に使っていたんでしょう。

佐野のあたりに青物市場があったようですね?

そうそう。空ではなくて、薪(まき)や野菜を積んでいる来る車もあったわよ。

衣笠商店街の闇市とかは?

衣笠商店街は戦後ね。バラックのような建物のお店がありました。

中学校は池上中学校に通いました。
卒業して事務員の職についたのですが、やっぱり勉強したくて、横高の夜間に通いました。
お給料をもらってからですが、玉寿々のラーメンを食べるのが楽しみでしたね。一杯37円でしたよ。そういえば、今の行政センターのあたりにお風呂屋さんがありましたね。消防署もあって、その隣だったかしら。