北村夏子さん(仮名)から聞いた横須賀の戦中戦後のお話の覚書

お話を聞いた日時:2022年 7月8日 14:30-15:30


函館から汽車で横須賀駅に着いた。
迎えにくるといっていたので、1日待って、半日待って、やっと北村さんが迎えに来ました。

お腹すいたでしょ?

おにぎりを8つ持って来ていたから大丈夫でしたよ。

北村さんとはそのときが初対面です。
横須賀駅からはバスに乗りました。途中で「子供と老人以外は降りろ」と言われ、なんのことかと思ったら坂を上がるのにみんなで押せっていわれました。平坂は今では平らだけれど当時はもっと傾斜があって、舗装もされていないんです。坂を上がり切るとそこから下りになるから、みんなでバスに乗り込みました。炭で走るバスでした。

どこの官舎も満員ですから、空きを待たなければならない。男は戦争に出ていても家族が住んでいるからなかなか空かないんです。私たちが行く先の官舎はというと、小矢部の田んぼのちょっと高いところにある細長い長屋でした。久里浜への線路ができた頃から北久里浜駅やら周辺一面田んぼだったところにそういった官舎ができていったんですね。

小矢部の祠(ほこら)、もうないかもしれませんが、そこのお宮さんに集まりました。
(このときにおそらくお式をあげたのだろうか)
それから2日後、兵隊さんが2人家にやってきて、間口で何か待っているようすで、そしたら北村さんが軍服を着て「黙っていて悪かった、行ってくる」と、出征してしまったんです。なにも聞いてなかったのでどうしたものかと、母が「この結婚はなかったことにしたほうがお前のためだ」と言うんです。私もそう思って、お婆さんに故郷に帰りますと、申し上げて母のところに向かい、ふと振り返ったときなんです。
子供を抱いていたお婆さん、こちらを向いていたはずのお婆さんが背中を向けて、その背中がなんとも言えない黒くて重くて、どーっとした感じで、「これから先、私がいなかったらこのお婆さんと子供はどうなっちゃうんだろう」って考えたら、もう帰れなくなっちゃったんですね。
それで、やっぱり残ることにしました。
想像どおり、その後の生活は大変でした。三浦半島は食料があるから戦時中でもそれほど苦労はなかったとよくいわれているけれど、それは農家の家のお話です。土地勘もないものだから、右も左もわからず、毎日他人様に頭を下げてお米を貰って生活していました。

警報があり、防空壕に避難していたら、隣組の若い女性が銀行のはんこを持ってくるのを忘れたと、壕から出ようとして、私は必死で、彼女の着物の裾を掴んで、そんなものは後でもなんとかなるからって言ったんですけど、強い力で振り解け、女性は走って行ってしまって、そしたらその後方を飛行機が追って、こう蛇行して、彼女の後ろを追っていって、機関銃でダダダダって打つんです。彼女が倒れました、その飛行機は旋回したときに、操縦席の人が見えたんです。黒人でした。笑ってました。まるでクマやシカを仕留めるように人間を撃ったんです。怒りがこみあげてきました。復習したいと思いました。怖かったです。私は震えていました。
アメリカもまずは黒人を使うんです。白人ではなくてね。

横須賀に来たのは24のときです。そのころの24は、もうおばさんです。
函館では、ご縁があって病院で看護師をしていました。主に助産師として働いていました。「埋めよ増やせよ」の時代ですからとても忙しい日々でした。こっち(横須賀)でもお産があれば、手伝っていました。

結婚しても男は皆、戦争に行ってしまいますから、そんな境遇の女性を「いちやづま」と云っていました。子を宿れば私はお産を手伝っていました。帰ってくればよいのですが、子を宿れなければそれまでです。

北村さんも、なかなか帰ってきませんでした。戦死の知らせはありませんでしたから、それを信じるしかありません。
北村さんは戦艦武蔵の乗組員でした。武蔵は公にしてはいけない船でしたので、家族宛の約束が書かれた書類がありました。賞状みたいなりっぱな紙でした。

戦時中の防空壕は岩山にあるものを使っていましたが、終戦後の防空壕は庭に掘りました。

戦後に防空壕ですか?

進駐軍が屋根のないトラックでやってきて女や子供をさらっていくと言われていたんです。夕方になると、「雨戸を閉めて夜は出歩かないこと」と警報のような放送があったんですよ。