池上の松原山(今の池上中学校の場所)を敷地予定地として昭和三年二月二十九日付で代表者南波国二(藤沢市片瀬の住人)の名で文部大臣宛財団法人三浦中学校設立認可申請書を県庁に提出
生徒を募集したところ、百三十三名の応募者があった
入学式、敷地や校舎ができるまでの間、妙蔵寺(横須賀市池上)を借りることに
当時の住職、杉崎顕中上人の旧友(横須賀の教育者で地所持ちである資産家)福本壽栄が役員のひとりだったことも幸いし、再三にわたる協議の末、昭和三年四月から五月末まで、お寺の行事の邪魔にならないようにする等の条件つき
昭和三年四月十五日 入学式 福本壽栄宅
昭和三年四月二十日より 授業開始 妙蔵寺
本堂も庫裡もお寺の大部分を借用
学級は三学級で授業を行い、教職は八名
松原山を削って校地を造る工事が始まるも、資金不足で中止となる
妙蔵寺には、百三十数名の若い生徒が毎日通学してくる。本堂の丸柱や畳、庫裡や座敷の方も同様痛めてしまう特に雨天の日などは本堂前の芝生も踏み蹴られてしまう
妙蔵寺との約束の五月末になっても敷地工事は一向に進まず、
(報告もないまま、現場の教師も生徒も不安でいっぱい)
昭和三年七月二十日、第一学期の終業式を迎える
発起人のひとりであった大塚孝惟(元横須賀学務課長)は、三浦中学校設立の困難さを感じ、公郷の大地主石渡担方を説得、中学校設立より簡単な商業高校設立を考え石渡氏を設立者兼校長とすることを条件に、昭和三年八月初旬ごろから設立運動に着手
一方、
福本壽栄は七月末をもって沢山小学校校長を辞任、今後は三浦中学校設立許可の取得に自ら先頭に立つことを覚悟。
県庁学務課を訪問、一学期間の経過と現況を説明。二月二十九日に提出した申請書は、内容不備および出願後の連絡もなかったため、机の引き出しの下積みになっていたので、却下申請を県へ提出。
松原山の敷地の造成工事も再開され、八月末を期限として仮校舎の建築に着手。
昭和三年九月一日 第二学期授業を始める 松原山の仮校舎
学校設立認可にあたり、敷地について中学校設置基準に達するために個人の資金を要する事項に対し不合格とされた
そこで、大明寺下の現在の敷地を候補地とした。福本家の所有地で、第一級のコメが収穫できる一等地であったため、小作人全員が土地取り上げに反対した。地主福本からやむを得ない事情を何回も詳細に説明しようやく諒解してもらうことができた。
数千坪の田んぼの埋め立てにも膨大な資金がかかり、福本の資産が担保に。
昭和三年九月始め 申請書提出
昭和三年十一月二十日付、申請書受理
昭和三年十二月第二学期終了と同時に松原山の校舎解体。四年一月の始業式に間に合うよう移転作業。職員生徒総がかり、馬力二台動員。
福本は一日おき位の割合で県庁へ赴き、文部省へも足を運んだ。県官も工事の進みを時々視察にきていた。
昭和四年四月五日付で三浦中学校設立認可を得た。
福本壽栄
昭和六年十二月初旬 風邪で床につき、十二月二十五日ご逝去(五十三歳)
この覚書の元の資料
妙蔵寺たより 第54号(平成11年7月21日)
旧制三浦中学(現三浦高等学校)発祥の地妙蔵寺 学校誕生の頃と妙蔵寺
横須賀市若葉幼稚園 理事長 竹折輝達
※学校敷地の埋め立てに、JR横須賀トンネル掘削の土砂を使ったという話を耳にしたことがあるが、年代あわず保留中
JR横須賀トンネル(全長 2089m)
1944年(昭和19年)完成
1944年(昭和19年)横須賀線久里浜駅まで延伸
昭和20年4月-8月 相模金谷駅