戦争の話(横須賀)

海の見える高台の平屋。
90歳のおばあちゃん よりこさんに戦争のときの話をうかがいに行きました。
三浦半島は米も魚も豊富な場所なので、比較的穏やかな戦中の暮らしを予想していましたので驚きました。

2時間ちょっとの長い時間、録音機持ってくればよかった...と思うくらいたくさんお話してくださいました。

「チョコレートはボケ防止になるのよ。私も何年も前からチョコレートを食べてるの。その証拠が私よ」
と、お土産にチョコレートをくださいました。

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警防団
ラジオで「東部軍艦区情報、警戒警報発令」って流れると、防空壕に行かなきゃいけないんだけど、警防団が家を一軒一軒まわって棒で家を激しく叩いたりして、あの人たち、ひどいのよー

憲兵
町のそこら中に憲兵が居て、私服で鳥打ち帽をかぶってたりして、、、
お風呂の帰り、浴衣なんかで歩いてるところなんて、憲兵にみつかればその場で平手打ちよ。

女子挺身隊動員令
女子挺身隊動員令が突然届いたの。
宛名は私だけれど、差出人が書かれていない。日にちと時間が書かれていて、
ヨゼフ病院の隣にあるでしょ?諏訪神社に来なさいって。もちろん手弁当よ。
1月だし、着るものはモンペ。寒かったわ。
そこで、いきなり事務員と現場、事務員に行きたい者は手を挙げろと言われて、なんだかよく解らないけど手を挙げたの。50人くらいの中私ひとり。みんな怯えていてどうしてよいのか解らないもの。

配給切符
配給に海宝麺っていうのがあって、「海宝」っていっても、寒天にヒジキとかひょろひょろの海藻が入っていてそれを細く切ってあるの。

食料配給は配給切符というのを購入するので無料ではないのよ。

衣料切符というのもあって、それがなければ糸も買えないから、縫い物もできない。

真珠湾攻撃
十軍神と報道されていたけど いつの間にか九軍神と言われるようになって、、、

「リメンバーパールハーバー」という言葉が、英語廃止をしている日本にも口伝えで広まって。真珠湾攻撃、特攻隊だの、なんて大それたことをしているのか、日本がアメリカに勝てるわけない...って思った。

ピカドン
毎日届く新聞はタブロイド版っていうひとまわり小さい大きさで誌面はピラピラの1枚。紙なんてなかったのよ。
原爆が落とされた日のタブロイドには、「新型爆弾」「ピカドン」と書かれ、原爆などという言葉は一切なかったわ。

ビラ
空からビラはよくまかれていた。地域によって違うみたい。
原爆が落とされた翌日、横須賀の上空からまかれたビラには、武装解除すれば平和の灯火が灯る と書かれ、丸くふちどられたイラストには、家族が囲むテーブルに人数分のお茶碗に盛られた米と、テーブルのまん中に置かれた皿には三角の刺身のが描かれていたのをはっきりと覚えてるわ。紙の色?ザラバン紙よ。

敗戦後
敗戦後、横須賀では鎮守府の引き渡しが8/31に決まり、女こどもは横須賀から40Km離れるようにと言われたの。けれど、いきなりそんなこといわれても、親類縁者がそんな都合のいい場所にいるわけでもないし、、、
憲兵はあいかわらず権力をふるっていたわ。

海軍鎮守府 賜金係の後、今の久里浜駐屯地にあった海軍復員局へ勤めたころ
喧嘩する声をよく耳にしたわ。
戦死者遺族年金が欲しいから、戦死した息子の両親が嫁を追い出すの。夫が戦争にとられ戦死した上、夫の両親に離婚をせまられるんだから、ひどい話よ。

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よりこさんのお話をメモしたものを記しました。

記憶ちがいのものもあるかもしれません。

空からまかれるビラは日本軍のビラはなかったと言います。「そんな飛行機飛ばす余裕なんてないわよ」と。
もしかしたら、それは違うかもしれません。

裁縫学校に通っていた20代の女の子が、海軍鎮守府で戦死者の名簿を扱う事務を背負わされます。
仕事量は多く、ノルマがあるので みつからないようにこっそり家に持ち帰って布団をかぶって仕事をこなしたそうです。
今日は多いいわね。少ないわね。という日々の中、名簿に知っている人の名前を目にすると涙がとまらなくなったと言っていました。