辻井 善彌さん「小さな墓塔の民俗史」講演のメモ

聞きおこしメモです。
注意:お話の書き起こしなので、転載不可です。


辻井 善彌さん 講演「小さな墓塔の民俗史」
2018年 4月22日(日)西コミュニティセンター(横須賀市 長坂)にて

資料:小さな墓塔と民俗誌


葬式は、地域の人がやってくれた。なにも自分のお葬式について心配することがなかった。
今では、家族の縦のつながり地域の横のつながりがなくなってきて、終活なんて言葉もよく耳にするようになった。
家族のありかたがだいぶ変わっちゃって、お墓についても考え方が変わってきた。


さて、お墓とは、

漢字で見る「墓」とは、土で覆うものという意味になる。死体を野辺に捨てるというのがお墓。

鎌倉時代、鎌倉にはヤグラというお墓がある 身分の高い人のお墓である。
そのころの庶民は、というと、野辺に捨てる。

逗子ではあちこち掘っても人骨が出てくる。ある学校が体育館を建てるからと掘れば骨がボンボン出てきたという。
逗子の田越川も多い。
鎌倉時代、庶民の遺体はどうやら田や畑もない川に捨てたんじゃないかと云われている。

日本の土葬の時代は長かった、骨を取り出して骨を掘り起こしてどこかに祀ることはしていたようだ。
関西のほうは多く、関東ではあまりないが、お墓には2つある「埋め墓(うめばか)」「お参りするお墓」(両墓制)

火葬は明治30年、伝染予防法を作り火葬を義務づけた。ただ、火葬にはお金がかかる。そのため、普及しなかった。
昭和35年、火葬の普及率は63%。昭和55年は90%くらい、今では99%。

日本は本当の火葬ではない。
火葬した骨を土に埋めるますよね。インドの火葬は灰になるまで焼く、それが本当の火葬でしょう。
最近では海に散骨するようだが、なんかごちょごちょ骨が残っちゃってるんですよね、灰にすればいいのにね。
日本人はどうも骨にこだわるんですね。
土葬か火葬かという面では日本は中途半端ですね。

今では市の火葬場なんてものがありますが、昔は火葬は地域でやっていた。
オンボ焼きといいます。

長井で戦時中あたりまでは、地域の火葬場があり、焼いていた。

長徳寺の裏にぽっくり地蔵というのがある 焼き場の通りにある地蔵である。
ぽっくりいくからぽっくり地蔵なので、お年寄りが集まっていた、小屋まで建てていた。
そこへ私はお茶菓子持って、年寄りに話を聞きました。そのうち小屋が火事になって、みんな集まらなくなったが。


そのときに聞いた話

亡くなった人がいると、火葬場に戸板に乗せて死体を近所の人たちが運んだ。
山に焼き場がある。(長井の漆山の奥にあった)

薪が二十杯
濡れたムシロが20枚

だからお金がかかる

松葉をいれて、薪をくんで、積み上げる
その上にうつぶせにした死体を乗せる
これをね 抱きかかえて寝かせるわけだから、抱きかかえる人には良い事があると伝えられている、まあやりたい人が居ないから勝手に作ったんでしょう。

深夜に火をいれる。臭いのせいですね。昼はぜったいにやらない。
このときは人がついてないといけない。火をつけるとバーっと燃え上がっちゃうからムシロをかける。蒸し焼きにするんですね。
始終ついてあげなければならない。

ブツブツと音がする おなかが焼ける。
死人が大きな息をすることがあったり。うなり声をあげたりする。そうすると、仏がよろこんでるってね云うんです。
硬直していたのが、ぐっと動く事がある。
いちばん焼けないのが頭とおなか。うまく焼けるように棒でつつきながら焼く。
6〜7時間かけて朝まで焼く。

長井では火葬のときの習慣があり、生前に恨みをかった悪い人の場合、棒で叩く。ここでヒドい目にあわせてやれば、あの世で閻魔さんにエラい目にあわなくなるそうだ。

長寿者が亡くなった場合は、その骨を食べると長寿になるからいいと、食べた。ちょっとしょっぱいそうだ。

死人に世話をするとき火葬場で手伝いをしないといいことがないよと伝えられていた。
これが、つい7〜80年前にありました。

焼き場に立ち会った者は焼き場に着たものを捨てて行った。服に臭いが染み付くからだ。
どんな臭いかと聞いたら、魚の臭いだという、コノシロを焼いた臭い、秋刀魚を焼いた臭い そのような臭いだと云っていた。


葬送の歴史

「葬」とは、死体を草で挟む、草で覆うということ。野辺に捨てるということですね。

小学校一年生のときに母親をなくした。
当時の葬式の葬送を「野辺送り」と云います。
葬式が終わり、火葬の時代には、棺箱を中心に、旗を持った人が先頭に鐘を叩く人、位牌を持った人の葬式の行列があった。
バス道路を通って寺に行く。みんなに見られて嫌でした。

死というものは肉体から霊魂が離れる 分離するのが「死」と云います。
死んだ人の肉体のことを、亡骸(なきがら)といいます。魂がなくなった殻。

ではお墓はなんでしょう。肉体の葬り場所?魂がいるのがお墓?
私は、肉体を処理した場所がお墓で、お墓は魂と関係ないと思うんだけどね。

そんなわけで昔の人は「野辺に葬る」というわけであります。

お坊さんがお葬式に たちあったのはいつからでしょうか?
野辺に葬る時代にはお坊さんは居なくてもいいわけです。

お葬式と仏教は関係なくて、昔は葬式にお坊さんは関わらなかった。葬式は習慣、ならわしであって宗教ではなかった。
「ならわし」なので、葬式は、時代によって変わってもよいと思うね。


庶民のお墓

葬式にお坊さんが関わるようになったのは江戸時代から家康の宗教制作と非常にと関係があります。

昔は地域の長(おさ)が葬式を取り仕切っていた。

村八分 このへんでもあったようですが、村で、のけものにされることで、八分を追放するんだけど、残りの二分はつきあうということで、その二分というのは 葬式と火事のこと。

心配しなくても誰かがやってくれるというのがお葬式であった。
まあ、村ではつきあいが大事だったんですね、いい葬式をやってくれないとね。

徳川の宗教制作
ひとつはご承知のようにキリシタンの弾圧、そのために檀家制度(寺うけ制)を作った。つまり庶民は必ずお寺に登録させた。
だから、お寺はよかったんですよ。
戸籍をお寺に置き、関所を通るために証明が必要であったためそのときはお寺に行って寺請状をもらったりした。
260年戦争がなかった徳川の時代である よくできた政治であったのではないか。
そのことから葬式もお寺が担うことになる。

昔から、お寺ではお坊さんのお葬式はあった。
庶民の葬式も同様に、死んだ人をお坊さんにすることにした。
出家させる、亡くなると髪をそり白装束を着せる、お坊さんのお葬式を真似て庶民の葬式をした。
戒名もそのころからのものである。戒名もあるから位牌も作ろう、仏壇も作ろう、お墓も作ろう、お墓にも戒名を書こう。
お墓を石で作るようになったのは、このころ江戸時代ということなんです。

庶民のお墓は江戸時代以降であるのは、こういうことなんですね。

ただ、まったくなかったわけではない。
五輪塔(長坂 妙印寺 一石五輪等 三浦半島では室町末期)
江戸初期になると 長坂 広瀬家の浮き彫りの五輪塔のように、いずれも身分の高い人のお墓であるのだが。


子どものお墓

注目をしたきっかけはお地蔵さん。秋谷 きらきら公園にある「岩船地蔵」
栃木県の岩船山のお地蔵さんを招いた(勧請した)。栃木の 光照寺という有名なお寺のほうから、わざわざ三浦半島に来たお地蔵さん。
梶ヶ谷さんの了承を得て墓地を調べたら、59基のお墓のうち、23基が子どものお墓だった
享保23年には5人の子どもが死んでいた。
梶ヶ谷家は秋谷村の草分け 豪農百姓であった。
一族の墓の中に血縁関係ではない人のお墓もある、その中に、譜代(ふだい)とあった。隷属農民(農奴)である。
江戸時代初期まで、お金持ちの農家が雇っていた奉公人というのは、はっきりいいますと、人質です。お給料はありません。
江戸時代中期、人身売買はいけないと、奉公の期間は10年に限るという制度が作られているが、江戸時代初期にはそのようなものはなかったため、いわゆる永久奉公人というわけです。

子どものお墓は戒名でわかります。女は戒名に、童女 男は童子とつきます。
金持ちは6文字 貧乏人は4文字だったりします。
子どものお墓は小さいです。
戒名もない小さいお墓もあります。石屋さんに作ってもらったのはなくて、親が子どものために自分で作ったのではないか、そのような小さいものもあります。

本(「小さな墓塔と民俗誌 2017年3月3日発行 発行者 辻井 善彌」)にする上でお墓を写真でなく絵にしたのは、じっくり見てもらいたかったからです。

だいたいお墓はお地蔵さんで、阿弥陀様や観音様もありますが少ない。
お地蔵さんは2種類、錫杖を持ったものと持っていないお地蔵さん モデルはお坊さんなんでしょうね。


地蔵信仰と子どもの関わりが深い

この世にいる人の悩みや苦しみをほぐしてくれる、あの世にいっても私たちを救済してくれる地蔵信仰。

お地蔵さんは、平安時代に中国から伝わった。地獄に仏といいまして、地獄で守ってくれるお地蔵さん。地蔵信仰は江戸時代には盛んであった。
賽(さい)の河原の地蔵。和讃ですね。地蔵和讃の影響は大きかったんじゃないかな。

幼くしてなくなった人は、閻魔さまの裁判はなかった。そのかわり賽の河原に行って、石を積まされていた。かわいい手でね。
積まれた石を いじわるな鬼が崩してしまう。そしてまた子どもが石を積んでいく。そのいじわるな鬼を退治してくれるのが、お地蔵さんなんですね。
そのようにして地蔵信仰が浸透したんですね。

浸透していった理由として、地蔵信仰と日本古来の信仰である道祖神が結びついたという説があります。


わからないこと

江戸時代中期のものが圧倒的に多い(1700年代以降が多い)、
江戸末期、明治大正昭和の子どものお墓があまり見当たらない。それがなぜなのか。

乳幼児新生児の亡くなる率が高かった。
長井 長徳寺の江戸後期の過去帳から、亡くなっている人の記録によると、ほうそう ころり はしかといった伝染病。
あるお寺の過去帳によると、明治29年から44年の間に死んだ人 202人のうちの99人が子どもである。
江戸後期に伝染病がなくなったという記録はない。

お墓事情があったのでは、お墓の場所が少なくなったからではないか。
子どものお墓を勧請した岩船地蔵にまとめて移したのではないか。
「**家の墓」などと、一族まとめたお墓も明治以降である。

箱罠のタヌキ

「これから見回りよ」
「わーい ついてってよい?」
「では助手席に」

軽トラの助手席

アライグマ・タイワンリスなどの外来種防除のために森に仕掛けた箱罠の、見回り作業におじゃましました。

箱罠を持って山道を歩く

「あ フキノトウ」
「おお」

フキノトウ

箱罠を点検

箱罠の点検

箱罠にタヌキがかかっていた

箱罠の中の食べ物につられてタヌキがよくかかるそうだ。

アライグマが目的なので、私たちにとっては、タヌキは営業妨害なんですよー。と、罠の入口をあけて「ほら、出ろ」と促すし、すぐに出てこないタヌキの様子を見ながら、箱罠の入り口をワイヤーで固定し、他の作業にとりかかる。
箱の中からこちらを じーっとうかがっていたタヌキは、しばらくすると箱からのそのそと出て、ひょいひょい山の茂みに姿を消した。

「常連さんかな」

このタヌキ、罠にかかるのはこれが初めてではないようだ。

方や、箱罠の入口をあけると、一目散に箱から飛び出すタヌキもいる。
ギャン!と威嚇されることもある。噛まれたらたいへんだ。
タヌキと一概にいってもいろんな性格の個体がいるのだそうだ。

箱罠には、賞味期限切れになったビスケットとパンを設置する。
パンは、友人のパン屋さんから譲ってもらうもので、この日は、きな粉ケーキ。
賞味期限が切れているといってもとても美味しそうな香りである。

箱罠にビスケットやパン

他の場所では、疥癬(かいせん)にかかったみすぼらしいタヌキが箱罠にかかっていた。
からだが弱っているから自分で餌が穫れない。病気のタヌキが罠にかかっていることは多いらしい。

さては、こんな汚いカラダのオレサマをタヌキ汁に?やれるものならやってみろ 罠なんかこわくない。なんて言っている?

…などと、戯れに思うのも、また人間の勝手なのだろう

常連さんっぽいタヌキ

箱罠にタヌキ

箱罠にタヌキ

ほら、出ろ

入口があけっぱなしになるようにワイヤーで固定してます

作業をみつめるタヌキ

まだ見ている

箱罠のタヌキ

箱罠のタヌキ

じー

箱罠から出てくるタヌキ

箱罠から出てくるタヌキ

やっと帰る気になったタヌキ

森に帰って行くタヌキ

タヌキ、森の茂みに帰って行った

茅場

今日は茅刈り作業と聞き、行ったはいいが

誰も居ず

荒涼とした黄土色の広場
広場に茅

(1時間半も遅刻した私が悪い。)

茅と茅の間

背の高さほどの茅の中へ分け入ると、風もさえぎられあたたかく、
茅場の散歩にまいります。

茅場

すこし高いところに登り、茅場を見下ろしたり

空に木枝のシルエット

上を見上げたり 松の木。

茅場

茅

拾った茅をふりまわして音を出したり、ぴゅんぴゅん音がします。

茅場のある山を望む

1時間ほど散歩して、駐車場に戻ると、箱罠を積んだ軽トラと遭遇しました。

「これから見回りよ」
「わーい ついてってよい?」
「では助手席に」

「箱罠のタヌキ」へ、つづく